とある日の出来事
昨日の病棟は久しぶりに落ち着いた空気が流れていました。
患者さんは9名、スタッフは7名。
人員的にも比較的ゆとりがあり、
「今日は教育にもじっくり取り組めそうだな」と思っていた1日でした。
しかし、その日のリーダーは副主任。
10歳ほど年上の方で、普段から教育に対してあまり関心を示さない印象がある方です。
この日も、経験を積むべきスタッフに対して何の意図も感じられない受け持ちの割り振りがなされていました。
その姿勢に、心の中で「またか……」と、ため息が漏れてしまいました。
【感じた葛藤と疑問】
副主任という肩書がありながら、「スタッフを育てよう」という視点がまるで感じられない。
私は心の中で何度も問いかけていました。
「どうして、この人は“育てる”という行為を避け続けるんだろう?」
「教育は、一部の人だけが担うものなの?」
「その立場にいるのに、なぜ見て見ぬふりができるのだろう?」
教育は、委員会の仕事ではなく“現場全体”で取り組むべきもの。
誰か一人の情熱や努力では限界があるからこそ、チームで意識を持ち寄ることが不可欠です。
目の前のスタッフに必要な経験を、誰が、どのタイミングで与えるのか。
それを日々考えて向き合っているからこそ、無関心で淡々と仕事を割り振るその姿に、
虚しさと苛立ちが募ってしまいました。
わたし考える【“教育”の意味】
教育の本質とは、単に知識や技術を伝えることではありません。
私にとっての教育とは、「経験を積ませる」こと。
経験することでしか学べないことが多く、実際に手を動かして学び、
考えて行動することが成長に繋がります。
教育理論や方法論を実践することは重要だと思いますが、
その教育理論を日々実践しながら指導しているスタッフはどの程度いるのでしょうか。
その場で感じた感情、行動に移した結果が、今後の自分の思考や行動に影響を与えるのです。
「できること」をできるだけ早く、無理なくやらせ、次は少しハードルを上げてチャレンジさせる。
それを繰り返しながら育成していくことが、スタッフの成長に繋がると信じています。
そして、教育は“支援”だと思っています。
必ずしも一歩一歩手取り足取り教えるわけではなく、時には見守り、気づいたらサポートする。
その姿勢を大切にしていきたいのです。
教育とは、一人一人の成長に寄り添うこと。
理論を押し付けるのではなく、その人に合ったペースで成長できるよう支えることが、
私の目指す教育の形です。
それが、結果的に理論に当てはまっているのではないかと考えます。
結果としての成長
教育は長期的な視点で取り組むものだと思います。
最初はうまくいかないことが多くても、それを何度も繰り返していくことで、
次第にできるようになっていく。
その成長の過程を見守り、時には自分自身も反省しながら支えていくことが大切だと感じています。
最近、振り返ることが多いのですが、「あの時こうしたから今の自分がある」というように、
どの経験も無駄にならず、必ず後になって生きてくるんだなと実感しています。
スタッフも同じです。最初の頃に感じた不安や苦しみも、
今では少しずつ自信に変わってきている姿を見ると、
自分が行ってきたことは多かれ少なかれ、間違いではなかったと感じます。
結果的に、スタッフが成長していくことで、私自身も学び、成長することができる。
その循環が、教育の真髄ではないかと思っています。
教育を通じて、ただ知識を伝えるだけではなく、
その人の成長の手助けをするという深い意味を持っていると、今は強く感じています。
おわりに:それでも私が信じたいこと
苦しさを感じる瞬間はあるけれど、それでも私は教育を諦めたくありません。
「今日この人は機会を得られなかった。でも、次は私がつくる。」
そんなふうに、自分ができるところから一歩ずつ関わっていきたい。
そして、教育に対して同じ方向を向いていない人がいても、求めすぎず、
望まない状況に対しても臨機応変に「今できる教育」を実施していく。
そうすることで、視野を狭めず、柔軟で多様な支援ができる教育であり続けられると信じたい。
教育は苦しさの中にある“可能性”そのもの。
今日も、私なりにその可能性と向き合っていきます。
コメント