「どうしたら、この人ができるようになるだろう」
教育に関わっていると、何度も考えます。
伝え方を変えてみる。
一緒に振り返ってみる。
本人が何につまずいているのか考えてみる。
できていないことを責めるのではなく、どうすれば次につながるのかを考える。
それでも、なかなか行動が変わらないことがあります。
そんなとき、教育する側は思ってしまいます。
「私の関わり方が悪いのかな…」
でも最近、改めて思うことがあります。
教育は、教える側だけでは成立しないのではないか。
「教える」と「育つ」は同じではない
教育担当になると、
「この人を育てなければ」という責任を感じます。
もちろん、教育する側には責任があります。
相手の理解度に合わせること。
できない理由を考えること。
必要な知識や経験を提供すること。
安心して質問できる環境をつくること。
できなかったことだけを見るのではなく、できるようになる方法を一緒に考えること。
これは教育する側ができることです。
でも、
教えたことを自分の課題として受け止めること。
分からないことを調べること。
指摘されたことを次の行動につなげること。
ここから先は、本人にしかできません。
どれだけ周囲が働きかけても、本人がそこに参加しなければ、教育は前に進まないことがあります。
「できない」と「やらない」は分けて考えたい
私は、できないこと自体は悪いことだと思っていません。
経験したことがなければ、できなくて当然です。
理解するまでに時間がかかる人もいます。
一度でできる人もいれば、何度も経験して身につく人もいます。
だから、
「できない」なら、どうすればできるようになるのかを一緒に考えたい。
でも最近、それとは別に考えなければならないことがあると感じています。
それが、
「できない」のか、それとも「やらない」のか。
分からないからできない。
経験がないからできない。
緊張してできない。
それなら支援の方法を考えられます。
一方で、必要性を伝えても取り組まない。
何度話しても行動につながらない。
本人が課題として受け止めていない。
こうした場合まで、すべてを「教育する側の関わり方」の問題にしてしまうと、教育担当者はどんどん疲弊していきます。
教育担当が頑張れば、全員が育つわけではない
教育に熱心な人ほど、
「もっと違う伝え方があったのではないか」
「私がもう少し関われば変わるかもしれない」
と考えてしまうのではないでしょうか。
私自身も、そう考えることがあります。
振り返ることは必要です。
でも、教育する側が100努力したからといって、相手が100成長するわけではありません。
人が育つためには、
教える側の働きかけと、学ぶ側の意思。
その両方が必要なのだと思います。
教育担当者ができるのは、成長できる環境をつくり、必要な支援をするところまで。
その環境をどう使うのかは、最終的には本人に委ねられます。
「見放さない」と「背負い続ける」は違う
だからといって、
「本人にやる気がないなら、もう知らない」ということではありません。
必要な支援はする。
困っていれば一緒に考える。
できない理由があるなら、それを探す。
でも、
その人の成長そのものまで、教育担当者が背負う必要はない。
最近は、そう考えるようになりました。
これは「見放す」ということではなく、
教育する側と学ぶ側、それぞれの責任を分けて考える
ということなのだと思います。
教育は「してあげるもの」ではなく、一緒につくるもの
教育というと、
「教える人」と「教えてもらう人」
という構図になりがちです。
でも、本当は一方通行ではないはずです。
教える側が問いかける。
学ぶ側が考える。
分からなければ伝える。
また一緒に考える。
経験する。
振り返る。
そして次の行動につなげる。
その繰り返しの中で、人は少しずつ成長していく。
だから私は、
教育は「してあげるもの」ではなく、教える側と学ぶ側が一緒につくるもの
なのだと思っています。
教育担当だからこそ、自分の責任の範囲を考える
教育に関わっていると、うまくいかなかったときほど自分を振り返ります。
その姿勢は、きっと大切です。
でも、
「この人が成長しないのは、私の教育が悪いからだ」
と、すべてを背負う必要はありません。
自分の関わり方を振り返る。
必要な支援を考える。
環境を整える。
そして、本人にも自分の成長に参加してもらう。
教育は、一人では成立しない。
最近の経験を通して、私は改めてそう感じています。
もし今、
「何度関わっても変わらない」
「教育担当として、自分の関わり方が悪いのではないか」
と悩んでいる看護師さんがいたら、一度考えてみてほしいです。
それは本当に、あなた一人が背負うべき課題でしょうか。


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